<<實踐文學>>, Seoul, Korea, November, 2015
限りなき相互作用、デモ
クゥン・ミョンア(權明娥)
翻訳 : 田島哲夫
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1.経緯を語る
本稿は「日本についての話」ではない。日本専門家でもない筆者が日本についての語れるわけもなく、ここで語ろうとするのは日本の状況についての評論や分析ではない。本稿は一つの経緯と、もう一つの経緯が出会い、語りとなり、また続いて新たな語りの連続をつくりだし、そうした語りを交わす集合体としての「歴史」がつくられる過程についての一つの報告であり、断章である。この「歴史」は「私」と釜山、研究集団アプコムと日本、高円寺と東日本大地震、京都市役所前と戦争法案に反対するさまざまな形のデモをめぐる歩みから始まる。紙幅が限られているため、そのなかのきわめて一部のみを簡略に紹介したいと思う。
韓国にも多く紹介されているシールズ(SEALDs)のデモの現場を見れば、大学生たちが自己紹介をしてから意見を表明する姿を見ることができる。自分が誰であり、これまでデモについてどんな考えをもっていたか、政治についてや社会の変化についてどう考えてきたか、あるいはなぜ関心がないのか、ところでまさにそうした自分自身がどんな理由から今まさにここに立っているのか。彼らはなぜこうした語りをするのか。デモの歴史と縁遠い日本の社会において現在のように数万人が集い、デモが持続できた要因はいろいろとあるだろう。とりわけ重要な要因は、私が見るに、デモが自らの経緯を公的に語り、またそうして互いの経緯を交わす結びの場を多様に発明したところにあるように思える。
日本の国会前のデモに関する韓国の報道は、ほとんど空からカメラでとらえた数万人の群衆の写真を載せている。デモについて報道してこなかった日本の巨大メディアも主に数多くの人波に焦点を合わせていた。日本の巨大メディアがデモ隊が何人なのか「科学的な分析」を下しつつ、デモ主催者側の出した参加者数が誇張されたものだと躍起になっている姿は「デモ」についての巨大メディアとデモ隊とのとてつもない視角の差をあざやかに示している。
東日本大震災以降、首相官邸前と国会前に集まった人々、どこにも記録されなかったが、日本の全地域から集まってきた「原発再稼働反対」「情報公開」を叫んだ無数の人々、そして安保法案撤廃のためにあちこちから集まり、政府に向かって自らの要求を伝えた人々は「数万人の群衆」というような量的規模として合算できない。彼らは皆自分なりの事情と経験と履歴を通じて、また互いに自らの言葉を伝え聞くために集まりはじめ、依然集まっている。二万人なのか、二十人なのかが重要でない理由はそのゆえである。二十人が集まってもデモを続けているところが、今ここ日本でのデモがもつ重要な意味である。
それゆえ本稿でも「私の経緯」をまず語ることで話を始めたいと思う。私が見、出会った「日本」は私の経緯を通じて続き、そうやってまた皆さんの経緯へと続き、あらたな語りと歴史を創りだすことができるからである。
ソウルのさまざまな人文空間と釜山を結びつける試み
ファシズムを専攻する研究者として長い間、日本はファシズムの研究資料を探す一つの「書庫」であった。対案人文学運動に関心をもち、また釜山へと居を移し、私にとって日本の意味は変わった。釜山に何の縁もゆかりもなかった移住者として釜山に根を下ろし、また地域の研究者らに根拠地となる対案空間をつくろうと、さまざまなモデルを探し求めた。そうして対案研究集団アプコムをつくった。アプコムは初め「生の半径を広げよう」を一つの志とした。それは根の深い地域差別の構造と学力差別が内面化された「地方大学」の研究者らと差別の壁を越えていく自己肯定の力をともにつくりたいからであった。ソウルのさまざまな人文空間と釜山を結びつける試みは半ば成功し、半ば失敗した。ソウルへの「往来」はチームのメンバーを疲れさせ、しんどくさせた。長い試行錯誤の末、この「疲労」が物理的な距離感からもたらされるものだけではないことに、どうにか気づくことができた。
歓待と「壁」
ソウルと釜山を往復する移動は逆説的に地域差別の構造的で心情的な「壁」を全身で病むことになった。ソウルの「友だちと仲間たち」はアプコムを心から歓待してくれたものの、歓待だけでは「壁」をのり越えることはできなかった。かえって歓待されているために壁を感じる「疲労」は、そっくりそのままメンバーらの「自分の問題」になってしまい、現実の壁をただ全身で病むしかなかった。
「クォン・ミョンア」という個人ではなく、アプコムの一構成員として行動すべきという強迫にちかい考えをもっていたため、メンバーらとのソウル疲れは私にそのまま転移した。否、ソウル疲れの理由はそれだけではなかった。膨大な資料を基盤とする研究と批評的実践とが「自然に」体質と化していたため、釜山でも初めはこうした類の研究と実践の場をつくった。しかし、ソウルでとは異なり資料を探すための時間的、物理的消耗があまりに大きかった。ソウルへ資料を探しに行くことは、地方とソウルとの格差を感じるに十分だった。また周りの先輩、仲間、後輩たちがどんな資料を何の論文に使っており、それは誰の論文の続編であり、どの資料が、どこでセミナーがあるといった協業と分業とでなっている学問の場は、ソウルのみが独占しているのだということを痛く感じた。
学問的介入、言説的介入のための文を書かねば、という私の叱咤に「学問の場、言説の場についての実感がない」という地域の研究者らの嘆きを実際自ら実感することができなかった。いまもその実感を私が同じに理解できるとは考えていない。また資料を基盤とした研究共同体をよりゲリラ的な批評的共同体へと転換したのはこうした理由が大きい。またアプコムのメンバーとともに「ソウルを訪ねること」をやめた。
高円寺、3・11 そして「革命のバタフライ効果」
そして日本の対案空間を訪ねる道に踏み出した。ソウルと釜山その他の地域の対案空間を探し歩いたやり方を踏襲した。ソウルの対案空間はよく知れれている方なのだが、釜山や地方の対案空間はそうではない。人の話や交換した情報を通じ、ようやく連絡先を探しだし、訪ねて行って会う。インタビューを通して記録し、彼らの活動を共有する。そうしていて初めて出会ったのが高円寺グループだった。高円寺グループをはじめとする日本の小さな空間を訪ね歩いているとき、3・11が発生した。東日本大地震が起きた2011年、アプコムはより以上頻繁に日本を訪ねた。外国人は日本から脱出するのに忙しく、韓国は日本に関する怪談(流言)であふれかえっていた時、私たちはできるだけ多く日本に行くことを選んだ。そこには私たちの苦境をともに分かちあえる友がいたからであり、なにより彼らが歩んでいく道をともにしたかったためである。
こうした個人的な話をまず語ることは、実際本稿において日本についての論議がいかなる脈絡を背景にしているかを少しく明らかにしておきたかったからである。日本の安保法制批判の現場については多くの論議がなされているのだが、「革命のバタフライ効果」とは論理的で客観的な知識分析とは異なる次元の地平を指し示すと思われるからである。安保法制批判のために数万人が国会前に集まり、デモを繰り広げている現在の日本の「奇跡のような」状況は、ある点においてそれぞれの経緯と経験が結ばれたからこそ可能だったと考える。
2.話を交わす集合体:新たな歴史を書くということ
歴史学者である小熊英二が監督したドキュメンタリー『首相官邸の前で』が2015年9月中旬、日本全国で公開された。産業映画の公開とは異なり、各地域のさまざまな場所で多様な形で「自主上映」を始めた。自主上映とは韓国の共同体上映と同じ形式である。日本は韓国のようにマルチプレックス映画館などは多くない。しかし所々に会員制で運営されている小さな独立映画館が未だ健在していると言える。京都でも2015年10月から立誠劇場で上映が始まった。立誠劇場は少子高齢化により廃校となった立誠小学校を改造した文化空間である。10月24日『首相官邸の前で』の第一回上映会があった。この日立誠劇場の客席は20代から80代まで、男女問わず多様な人々で埋まった。
2015.10月、立誠劇場
ドキュメンタリー映画であるにもかかわらず人々を映画を見ながらため息をつき、泣き、安堵の思いを分かちあった。小熊英二は『社会を変えるには』『生きて帰ってきた男』などで韓国でもよく知られている歴史学者だ。小熊英二はホームページでドキュメンタリー制作について以下のように明らかにしている。
私は、この出来事を記録したいと思った。自分は歴史家であり、社会学者だ。いま自分がやるべきことは何かといえば、これを記録し、後世に残すことだと思った。
映画を撮ったことはなかった。映画作りに関心を持ったこともなかった。しかし、過去の資料の断片を集めて、一つの世界を織りあげることは、これまでの著作でやってきた。扱うことになる対象が、文字であるか映像であるかは、このさい問題ではなかった。
いうまでもないが、一人で作った作品ではない。同時代に現場を撮影していた人びと、インタビューに応じてくれた人びとが、すべて無償で協力してくれた。
なにより、この映画の主役は、映っている人びとすべてだ。その人びとは、性別も世代も、地位も国籍も、出身地も志向もばらばらだ。そうした人びとが、一つの場につどう姿は、稀有のことであると同時に、力強く、美しいと思った。
そうした奇跡のような瞬間は、一つの国や社会に、めったに訪れるものではない。私は歴史家だから、そのことを知っている。私がやったこと、やろうとしたことは、そのような瞬間を記録したという、ただそれだけにすぎない。
いろいろな見方のできる映画だと思う。見た後で、隣の人と、率直な感想を話しあってほしい。映画に意味を与えるのは観客であり、その集合体としての社会である。そこから、あなたにとって、また社会にとって、新しいことが生まれるはずだ。
(小熊英二「監督の言葉」『首相官邸の前で』
http://www.uplink.co.jp/kanteimae/director.php
災難の経験, 地方の声, デモ
「安保法案反対」デモは東京の都心である国会前だけでなく、日本全域において多様な形で持続している。韓国のマスコミは主に東京の国会前のデモに焦点を合わせているが、全国の所々、小さな町毎に開かれるデモの存在もまた重要である。日本の社会においてデモが民主主義の重要な形として再び登場したのは、まさに東日本大地震と福島原子力発電所事故の経験が深く結びついている。この災難を通してさまざまな問題が提起されたのだが、災難の経験ですら東京をはじめとする中央の声に専有されてしまうという点が強く問題視された。
2015年、数万人の群衆が集まった国会前のデモについての便りを伝える本稿において、2011年の東日本大地震と福島原子力発電所事故についての語りへと遡るのはこうした理由からである。小熊英二の『首相官邸の前で』はデモを迷惑なものと考え、人々の暗黙的な合意に黙々とつき従うことに慣れていた人びと(日本語の「空気を読む」という表現はこうした社会的雰囲気を典型的に内包している)がどうやってデモへ踏み出していったかについての歴史的記録である。『首相官邸の前で』は日本の社会においてこの何年間デモを持続し、デモを通して変えられるという雰囲気がどのように根づいたかについての研究作業でもある。
"怪談"から、”皆が知識の主体となり”まで
東日本大地震と福島原子力発電所事故以降、政府の情報統制により人々は自ら情報を集め、交換しなければならなかった。初期には被曝についての怪談(流言)が広まりもした。韓国では主にこうした怪談(流言)が広まっている。しかし、怪談(流言)だけでは生を持続することはできない。生を持続するためには、そして生き抜くためには客観的で具体的な情報が必要である。東北地方の人びとは首相官邸の前で、東京電力の前で、自ら蒐集した情報を基に具体的な要求事項と政府の対策を追及した。こうした過程を経ながらデモは、情報と知識とを分かちあい、生を持続可能とする具体的な対策を追及する場となった。こうした過程において知識は以前とは異なる形へと向かうしかなかった。否、皆が知識の主体となり、皆の知識を分かちあう場がデモの現場となったのである。
”パトスを噴出”と”知識生産と共有の場”
日本のデモの現場はそうした点でパトスを噴出する場というよりは、知識生産と共有の場となった。過去の全共闘時代の激烈なデモが知識を基盤としつつも、パトスを噴出する場であったとすれば、今日の日本のデモは皆の知識を分かちあう場となったのである。これはきわめて重要な地点である。日本のデモの現場を見物した韓国の人びとが「激しくなかった」とか「あまりに真面目だ」とかの反応を見せるのもこうした脈絡から考えてみることができる。
こうした変化を見つめ、韓国でのデモ文化やデモに対する立場を比較し考えてみもした。もちろん歴史的局面や条件が異なる韓国と日本を同一線上において比較するのは難しい。ただ日本の社会においてデモについての論議を見つめながら、デモと民主主義の関係をパトスと知識の分かちあい、急進性と持続性、単一の立場の主導性と皆の参加可能性という脈絡からもう一度論議していくくとはきわめて重要だと考えるようになった。
不安を解消するための知識の生産と共有の熱情
日本でも2011年の人々の不安、恐怖、惧れと恨みという情動により街へと進出することになった。しかしデモがパトスを噴出する場にとどまる限り、破壊された生を持続することはできない。もちろんこれは二項対立的なものではない。多くの人々がデモを通して、そしてデモを持続できるということだけでも、不安と恐怖から脱け出し、生を変化させられる新たな情動へと移行することができたと証言している。そうした点から東日本大地震以降、日本におけるデモは不安と恐怖の情動を互いに分かつことにより、かえって生を変化させ、ともに生きぬかねばならないという変化の熱情へと移行させる媒介となったと言える。そしてこうした移行から不安を解消するための知識の生産と共有の熱情が重要な役割を果たしたと見られる。
2011年8月、模索舎
東日本大地震以降、デモが始まり、人々が集い、踏み出していく過程は、そうした点から知識を生産し分かちあう術を全く異なるやり方で専有する過程でもあった。一つの場面を例に挙げてみよう。2011年8月、東京は強制節電の施行中であり、焦熱地獄のように暑かった。東京の新宿区には模索舎という古びた感じの「書店」がある。1970年代につくられた模索舎は「表現と言論活動の多様性の保障」ということを目標としている。とくに「表現・言論活動の多様性を保証するには、これを媒介するメディア・流通に多様性をもたせることが不可欠です。模索舎はこの多様性の一役を担うため、取次店を介した主要出版流通ルートに対する“もうひとつの”流通をめざし、自主流通出版物(ミニコミ)を主要に取り扱っています」。
http://(http://www.mosakusha.com/voice_of_the_staff/)
東日本大地震以前、模索舎は韓国には今はなくなった「社会科学書店」と似たような役割を果たしてきた。冷戦体制が続く韓国とは異なり日本は相対的に思想の自由が幅広く保障されてきたのは事実である。もちろん消費資本主義の力が強力な日本における思想の多様性もまた資本の力に押さえつけられてきた。それでも長い歴史をもち、どうにか「生き残ってきた」出版社、書店、ネットワークは社会の雰囲気があれこれ変化するなかでも社会の基底にしっかりと根を下ろしている。模索舎もその一つである。
東日本大地震以降、模索舎には自主出版物が爆発的に増加した。「デモのやり方」「ポスターの作り方」といったデモの基本方法を知らせてくれる小さな冊子から小さな集まりがつくった出版物が全国から殺到してきている。模索舎には1970年代スタイルの古典的な社会科学書籍や製本されて間もない昭和時代の青年についての博士論文を基にした著書と同人誌、オタクたちの小冊子、 デモにはじめて参加した人々が自らつくった上記の「デモのやり方」といった本が並んでいる。
『首相官邸の前で』にも登場する「首都圏反原発連合」のミサオ・レッドウルフもイラストレーターだった。もともと青森県の核燃料再処理事業反対運動をしていた彼女は2007年「全ての核に対して「ノーというために」」活動する非営利団体「NO NUKES MORE HEARTS」をつくることになった。イラストレーターだった彼女はこうした活動を広く知らせるためにポスターや案内状、ロゴなどをつくり、他の団体のそうした仕事をも手助けしながら、本来の仕事をやめ、活動家としての生に専念することになった。(『直接行動の力「首相官邸前抗議」 』クレヨンハウス, 2013)
”強烈なイメージ”と ”目に見えない無数の努力とネットワーク”
日本のデモに多くの人々が関心をもつことになったのは「数万人が集まった国会前のデモ」という強烈なイメージのためでもある。いつもそうであるように、こうした強烈なイメージが消え去ると人々の関心も消え去る。そうだとすれば、引き続きこうしたイメージをつくるために努力すべきなのか。それも必要なことである。しかし日本においてこの数年間のデモの歴史を見れば、実際重要なことは強烈なイメージより、持続し分かちあうための目に見えない無数の努力とネットワークだと言えるだろう。1970年代につくられた模索舎はほとんど人々の注目を浴びないまま、不思議なほどその生存を持続してきた。模索舎があったから自主出版を持続することができ、今や初めてデモに踏み出すための新たに小冊子をつくって配布したい人々は模索舎をその媒介にすることができた。もちろんネットを通じた速く手軽な流通と配布も重要な役割を果たしたが、ネットはまたそれだけ簡単に情報を消滅させる。
「生き残ってきた」ネットワークが、新たに生じた変化の熱情と流れを運び媒介する窓口となる
ほとんどの人びとの目につきもしないが、対案と社会変化を志しつつ、社会の基底に根を下ろし、どうにか耐えてきた歴史あるネットワークとメディアが、新たに生じた変化の熱情と流れを運び媒介する窓口となる。ある点では今日の日本の社会においてデモは活用できる全てのメディアと表現方法をあらたに専有し発明する場となったと言える。国籍もジャンルも超越し、声を出し、ともに興じる全ての道具をデモの表現ジャンルとして発明した高円寺グループのデモもまた、こうした事例だと言えるだろう。
多様なロゴと個性あふれるデモ方式によりあらためて注目を集めているシールズは、実際こうした「デモ」の歴史のなかで形づくられたものである。最近シールズのデモの方法と考えを分かちあい討論する書籍が大挙出版されている。書店には「シールズによる選書」コーナーが用意されてもいる。このようにメディアと表現方法をあらたに発明しながらデモは持続している。
3.後戻りと踏み出し:限りない連結の発明
どうかすると以上の話は日本専門家やどなたかには臨時の訪問者で異邦人である筆者の誇張された希望的な語りと映ることもあろう。多分そうかも知れない。私が長くもない時間のなか、出会ったのは日本の人や日本の社会というよりは「出口のない状況においてただ自分なりに全力を尽くしている人びと」だったからである。
そしてそれは上で語ったことのように私の経緯と状況とを編んで書いた語りのかけらに過ぎない。失敗の連続、強固な体制による咀嚼のやむことのない反復、関係の絶望と自らへの悔恨と自虐、私の経緯はそのように足踏みをしている。今や長くもない日本滞留を終え、帰る日が近づいている。果たして帰って何ができるのかという絶望的な質問は引き続きカッコに入れてきた。その代わり全力を尽くしている人の周辺をのぞき見て、希望と「対案」を求めて一人でも多くの人に会おうと努めてきた。それゆえ、ある人の話も私にはあまりに大きく切実に映った。そうやって全力を尽くしている人びとの話を聞き、交わし、また伝えながらはじめて私の経緯も異なる語りへと踏み出すことができるのではないだろうか。
自らが歴史をつくるという自意識を表には出さないが、結局そうやって再び歴史を書いていく人々、彼らの語りを通して初めて歴史とはたんにめぐりゆくものではなく、踏み出していくものだという小さな結末を反芻してみる。
권명아
번역 : 타지마 테츠오
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1. 사연을 들려주다
이 글은 ‘일본에 대한 이야기’는 아니다. 일본 전문가도 아닌 필자가 일본에 대한 이야기를 쓸 수 있지도 않으려니와, 여기서 이야기하고자 하는 게 일본 상황에 대한 논평이나 분석은 아니다. 이것은 하나의 사연과 또 다른 사연이 만나서 이야기가 되고, 또 이어져서 새로운 이야기 연쇄를 만들고 그런 이야기를 주고받는 집합체로서 ‘역사’가 만들어지는 과정에 대한 하나의 보고이자 단상이다. 이 역사는 ‘나’와 부산, 아프콤과 일본, 코엔지와 동일본 대지진, 교토 시청 앞과 전쟁법안을 반대하는 여러 형태의 데모를 오가는 발걸음에서 시작된다. 제한된 지면 관계로 그중 아주 일부만을 간략하게 소개하고자 한다.
한국에도 많이 소개된 실즈(SEALDs:Students Emergency Action for Liberal Democracy - s)의 시위 현장을 보면 대학생들이 자신에 대해 소개하면서 의견을 표명하는 모습을 볼 수 있다. 자신이 누구이고, 그간 데모에 대해서 어떤 생각을 가졌고, 정치에 대해서나 사회 변화에 대해서 무슨 생각을 해왔는지, 혹은 왜 관심이 없었는지, 그런데, 바로 그러한 자기 자신이 어떤 이유로 바로, 지금 여기에 서 있는지. 그들은 왜 이런 이야기를 하는 걸까? 데모의 역사가 희귀한 일본 사회에서 지금처럼 수만 명이 모인 데모를 지속할 수 있었던 요인은 여러 가지가 있을 것이다. 그중 중요한 요인은 내가 보기에 데모가 자신의 사연을 공적으로 말하고, 또 그렇게 서로의 사연을 주고받는 연결의 장을 다양하게 발명한 데 있다고 보인다.
일본 국회 앞 시위에 대한 한국 보도는 거의 하늘에서 카메라로 잡은 수 만 명의 군중 사진을 내걸고 있다. 데모 보도를 하지도 않던 일본 거대 미디어도 주로 수많은 인파에 초점을 맞추었다. 일본 거대 미디어가 시위대가 몇 명이었는가에 대해 ‘과학적인 분석’을 내놓으면서 시위대 측에서 내놓은 군중 수가 과장된 것이라며 열을 올리는 모습은 ‘데모’에 대한 거대 미디어와 시위대 사이의 엄청난 시각 차이를 선명하게 보여준다.
동일본 대진재 이후 수상 관저 앞과 국회 앞에 모인 사람들, 어디도 기록되지 못했지만, 일본 전 지역에서 모여 ‘원전 재가동 반대’, ‘정보 공개’를 외친 무수한 사람들, 그리고 안보법안 철폐를 위해 여기저기 모여 정부를 향해 자신의 요구를 전한 사람들은 ‘수만 명의 군중’과 같은 양적 규모로 합산될 수 없다. 이들은 모두 각자 자신 나름의 사정과 경험과 이력을 통해, 그리고 서로 그 말을 전하고 듣기 위해 모이기 시작했고, 계속 모이고 있다. 2만 명이냐 20명이냐가 중요하지 않은 이유는 그 때문이다. 20명이 모여서도 데모를 이어나가고 있는 것이, 지금 여기의 일본에서의 데모가 가진 중요한 의미이다.
그래서 이 글에서도 ‘나의 사연’을 먼저 여러분께 들려드리고 이야기를 시작하려 한다. 내가 보고 만난 ‘일본’은 나의 사연을 통해 이어지고 그렇게 또 여러분의 사연으로 이어져서 새로운 이야기와 역사를 만들어낼 수 있기 때문이다. 파시즘을 전공하는 연구자로서 오랜 시간 일본은 파시즘 연구 자료를 찾는 하나의 ‘서고’였다. 대안 인문학 운동에 관심을 갖고, 또 부산으로 이주하면서 나에게 일본의 의미는 변하였다. 부산에 아무런 연고도 갖지 못한 이주자로서 부산에서 뿌리를 내리고, 또 지역 연구자들에게 터전이 될 만한 대안 공간을 만들고자 여러 모델을 찾아 다녔다. 그렇게 대안연구모임 아프콤을 만들었다. 아프콤은 초기에 ‘삶의 반경을 넓히자’를 하나의 지향으로 삼았었다. 그것은 뿌리 깊은 지역 차별 구조와 학력 차별을 내면화한 ‘지방대학’ 연구자들과 차별의 벽을 넘는 자기 긍정의 힘을 함께 만들고 싶었기 때문이었다. 서울의 여러 인문 공간과 부산을 연결하려는 시도는 반은 성공하고 절반은 실패했다. 서울을 ‘다녀오는 일’은 팀원들을 지치고 힘들게 만들었다. 오랜 시행착오 끝에 이 ‘피로’가 물리적 거리감에서 비롯되는 것만은 아니라는 것을 겨우 눈치 챌 수 있었다.
서울과 부산을 왕복하는 이동은 역설적으로 지역 차별의 구조적이고 심정적인 ‘벽’을 온 몸으로 앓게 했다. 서울의 ‘친구와 동료들’은 아프콤을 진심으로 환대해주었지만, 환대만으로 ‘벽’을 넘을 수는 없었다. 오히려 환대를 받고 있기 때문에 벽을 느끼는 ‘피로’는 고스란히 팀원들의 ‘자기 문제’가 되어버렸고, 현실의 장벽을 그저 온 몸으로 앓는 수밖에 없었다. ‘권명아’라는 개인이 아니라, 아프콤의 한 구성원으로 움직여야 한다는 강박에 가까운 생각을 가지고 있었기에 팀원들의 서울 몸살은 내게도 고스란히 전이되었다. 아니 서울 몸살의 이유는 그것만은 아니었다. 방대한 자료를 기반으로 한 연구와 비평적 실천을 ‘자연스럽게’ 체화하고 있었기에 부산에서도 처음에는 이런 식의 연구와 실천의 장을 만들었다. 그러나 서울에서와 달리 자료를 찾기 위한 시간적, 물리적 소모가 너무나 컸다. 서울로 자료를 찾으러 가는 일은 지방과 서울의 격차를 느끼기에 충분했다. 또 주변의 선배 동료 후배들이 어떤 자료로 무슨 논문을 쓰고 있고, 그게 누구 논문의 후속편이고, 어느 자료가 어디서 세미나가 있고 하는 식의 협업과 분업으로 이뤄진 학문장이란, 서울만이 독점한 것이라는 것을 절실하게 느꼈다.
학문적 개입, 담론적 개입을 위해 글을 써야 한다는 나의 질타에 “학문장, 담론장에 대한 실감이 없다”는 지역 연구자들의 한탄을 사실 실감하지 못했다. 아직도 그 실감을 내가 동일하게 이해할 수 있다고는 생각하지 않는다. 역사 자료를 기반으로 한 연구 공동체를 좀 더 게릴라적인 비평적 공동체로 전환한 것은 이런 이유가 크다. 그리고 아프콤과 함께 ‘서울을 방문하는 일’을 그만두었다.
그리고 일본의 대안공간을 찾아 길을 나섰다. 서울과 부산 여타 지역의 대안 공간을 찾아다니던 방법을 이어나갔다. 서울의 대안 공간은 잘 알려져 있는 편이지만, 부산이나 지방의 대안공간은 그렇지 않다. 입소문과 알음알음의 정보를 통해 겨우 연락처를 알아내고 찾아가서 만나고, 인터뷰를 통해 기록하고 그들의 활동을 공유한다. 그렇게 먼저 만난 것이 코엔지 그룹이었다. 코엔지 그룹을 비롯하여 일본의 작은 공간들을 만나가던 도중 3. 11이 발생했다. 동일본 대지진이 일어난 2011년, 아프콤은 어느 때보다 더 자주 일본을 찾았다. 외국인들이 일본을 떠나기 바쁘고, 한국에서는 일본에 대한 괴담이 넘쳐나던 시간, 우리는 가능한 더 일본에 자주 가는 길을 택했다. 거기에 우리의 곤경을 함께 나눈 친구들이 있었기 때문이고, 무엇보다 이들이 걸어가는 길에 함께 하고 싶었기 때문이다.
이런 개인적 이야기를 먼저 하는 것은 사실 이 글에서 일본에 대한 논의가 어떤 맥락을 배경으로 하는지를 조금은 밝히고 싶어서였다. 일본의 안보 법제 비판의 현장에 대해서는 많은 논의들이 이어지고 있지만, ‘혁명의 나비 효과’란 논리적이고 객관적인 지식 분석과는 다른 차원의 지평을 지시한다고 보이기 때문이다. 안보 법제 비판을 위해 수만 명이 국회 앞에 모여 시위를 벌이는 현재 일본의 ‘기적과 같은’ 상황은 어떤 점에서 각자의 사연과 경험이 이어졌기 때문에 가능했다고 생각한다.
2. 이야기를 나누는 집합체: 새로운 역사를 쓴다는 것
역사학자인 오구마 에이지가 감독한 다큐멘터리 <수상관저 앞에서>가 2015년 9월 중순 일본 전역에 개봉되었다. 상업 영화의 개봉과는 다르게 각 지역의 여러 장소에서 다양한 형태로 ‘자주상영’을 시작했다. 자주 상영이란 한국의 공동체 상영과 같은 형식이다. 일본은 한국처럼 멀티플렉스 영화관 등이 많지 않다. 하지만 곳곳에 회원제로 운영되는 작은 독립 영화관이 아직은 건재한 편이다. 교토에서도 2015년 10월부터 리쎄(立誠) 극장에서 상영이 시작되었다. 리쎄 극장은 고령화로 인해 폐교된 리쎄 초등학교를 개조한 문화 공간이다. 10월 24일은 <수상관저 앞에서>의 첫 상영회가 있었다. 이날 리쎄 극장의 객석은 20대에서 80대까지, 남녀를 막론한 다양한 사람들로 가득 찼다.
다큐멘터리 영화임에도 불구하고 사람들은 영화를 보며 한숨짓고 울고, 안도감을 나누었다. 오구마 에이지는 『사회를 바꾸려면』이나 『일본 양심의 탄생』 등으로도 한국에 잘 알려진 역사학자이다. 오구마 에이지는 홈페이지에서 다큐멘터리 제작에 대해 다음과 같이 밝혔다.
역사학자이자 사회학자로서 나는 이 역사적 사건을 기록하고 싶었다. 나의 임무는 이 사건을 포착해서 미래 세대에게 건네주는 것이다. 나는 영화를 감독한 경험이 전혀 없었고, 영화 작업에 대해 지금까지는 전혀 관심도 없었다. 책을 쓰면서 나는 항상 과거의 역사 자료의 조각들이 자신의 이야기를 들려줄 수 있도록 재조합하곤 했다. 이 다큐멘터리 프로젝트를 하면서 이 독특한 사건을 들려줄 수 있는 자료가 문자인가 영상인가는 것은 별로 문제가 되지 않았다.
물론 나는 이 필름을 혼자 힘으로 완성할 수 있었던 것은 아니다. 동시대의 현장을 기록한 수많은 독립 제작자들은 그들의 필름을 내가 무상으로 사용할 수 있도록 선뜻 응해주었고, 전 수상조차 이 작업에 기꺼이 응해주었다.
내가 보기에 이 다큐멘터리에 나오는 사람들이야말로 진정한 스타이다. 그들은 젠더, 세대, 계급, 출신, 지위, 국적 지향 등이 다 다르다. 이들이 항의를 하기 위해 수상 관저 앞에 함께 모였다는 것은 그야말로 흔치 않은, 강력하고도 아름다운 순간이었다.
한 국가나 사회에서 이러한 순간이 발생하는 것은 그야말로 기적과 같은 순간이다. 나는 역사학자이고 그것을 잘 알고 있다. 내가 할 수 있고, 또 하고 싶은 일은 다만 이 이례적인 순간을 포착해서 기록하는 그것뿐이다.
이 영화는 보는 사람에 따라 여러 방식으로 해석할 수 있는 작품이라고 생각한다. 이 영화를 보고 옆에 있는 사람과 영화에 대한 솔직한 생각들을 나눠주시기 바란다. 영화에 의미를 부여하는 것은 관객이고, 그 관객의 집합체가 사회이다. 이러한 상호작용에서부터 당신에게도 또 사회에 있어서도 새로운 것이 발생하리라 믿는다. (오구마 에이지, <감독의 말> <수상관저 앞에서> 홈페이지, http://www.uplink.co.jp/kanteimae/director.php, 번역 필자)
‘안보법안 반대’ 데모는 도쿄 중심가인 국회 앞에서만이 아니라 일본 전역에서 다양하게 지속하고 있다. 한국 언론은 주로 도쿄의 국회 앞 시위에 초점을 두고 있지만 전국 곳곳, 작은 동네마다 열리는 데모의 존재 역시 중요하다. 일본 사회에서 데모가 민주주의의 중요한 형식으로 다시 등장한 것은 바로 동일본 대지진과 후쿠시마 원자력발전 사고의 경험과 깊이 연결되어 있다. 이 재난을 통해서 여러 가지 문제들이 제기되었지만, 재난의 경험조차 도쿄를 비롯한 중앙의 목소리에 전유 되어버린다는 점이 강력하게 문제시되었다.
2015년 수만 명의 군중이 모인 도쿄 도청 앞 데모에 대한 소식을 전하는 이 글에 2011년의 동일본 대지진과 후쿠시마 원자력 발전 사고에 대한 이야기로 거슬러 올라가는 것은 이런 이유 때문이다. 오구마 에이지의 <수상 관저 앞에서>는 데모를 민폐로 여기고, 사람들의 암묵적인 합의를 묵묵히 따라가는 데 익숙했던 일본 사람들(일본어로 ‘공기를 읽는다.’는 표현은 이런 사회적 분위기를 전형적으로 담고 있다.)이 어떻게 데모로 나아가게 되었는가에 대한 역사적 기록이다. <수상 관저 앞에서>는 일본 사회에서 지난 몇 년간 데모를 지속하고, 데모를 통해 사회를 변화할 수 있다는 분위기가 어떻게 자리 잡게 되었는지에 대한 연구 작업이기도 하다.
동일본 대지진과 후쿠시마 원자력 발전 사고 이후 정부의 정보 통제로 인해 사람들은 스스로 정보를 모으고 나누어야만 했다. 초기에는 피폭에 대한 괴담이 퍼지기도 했고, 한국에는 주로 이런 괴담들이 널리 퍼지고 있다. 그러나 괴담만으로는 삶을 지속할 수가 없다. 삶을 지속하기 위해서는, 그리고 살아남기 위해서는 객관적이고 구체적인 정보가 필요했다. 동북 지방 주민들은 수상 관저 앞에서, 동경 전력 앞에서 자신들이 수집한 정보를 기반으로 구체적인 요구 사항과 정부의 대책을 촉구했다. 이런 과정을 거치면서 데모는 정보와 지식을 나누고 삶을 지속할 수 있는 구체적인 대책을 촉구하는 장이 되었다. 이런 과정에서 지식은 이전과는 다른 형태로 나아갈 수밖에 없었다. 아니 모두가 지식 생산의 주체가 되고 모두의 지식을 나누는 장이 데모 현장이 되었다.
일본의 데모 현장은 그런 점에서 파토스를 분출하는 장이라기보다 지식 생산과 공유의 장이 되었다. 과거 전공투 시대의 격렬한 데모가 지식을 기반으로 하면서도 파토스를 분출하는 장이었다면, 오늘날의 일본의 데모는 모두의 지식을 나누는 장이 된 것이다. 이는 매우 중요한 지점이다. 일본의 데모 현장을 구경한 한국 사람들이 “강력하지 않다”거나 “너무 진지하다”거나 하는 반응을 보이는 것도 이런 맥락에서 생각해볼 수 있다.
이런 변화를 보면서 한국에서의 데모 문화나 데모에 대한 입장들을 비교해서 생각해보기도 했다. 물론 역사적 국면이나 조건이 다른 한국과 일본을 동일 선상에서 비교하기는 어렵다. 다만 일본 사회에서 데모에 대한 논의를 보면서 데모와 민주주의의 관계를 파토스와 지식의 나눔, 급진성과 지속성, 단일 입장의 주도성과 모두의 참여 가능성이라는 맥락에서 다시금 논의해나가는 것이 매우 중요하다는 생각을 하게 되었다. 일본에서도 2011년 사람들은 불안, 공포, 두려움과 원한이라는 정동으로 거리로 나서게 되었다. 그러나 데모가 파토스를 분출하는 장에 그치는 한, 파괴된 삶을 지속해나갈 수가 없다. 물론 이는 이항 대립적인 것은 아니다. 많은 이들이 데모를 통해서, 그리고 데모를 지속할 수 있다는 것만으로도 불안과 공포에서 벗어나, 삶을 변화시킬 수 있는 새로운 정동으로 이행할 수 있었다고 증언하고 있다. 그런 점에서 동일본 대지진 이후 일본에서 데모는 불안과 공포의 정동을 서로 나눔으로써 오히려 삶을 변화시키고 함께 살아남아야 한다는 변화의 열정으로 이행시킨 매개가 되었다고 할 수 있다. 그리고 이런 이행에서 불안을 해소하기 위한 지식 생산과 공유의 열정이 중요한 역할을 했다고 보인다.
동일본 대지진 이후 데모가 시작되고 사람들이 모이고 나아가는 과정은 그런 점에서 지식을 생산하고 나누는 방법을 전혀 다른 방식으로 전유하는 과정이기도 했다. 하나의 장면을 예로 들어보자. 2011년 8월 도쿄는 강제 절전 시행 중이라 불지옥처럼 뜨거웠다. 도쿄의 신주쿠에는 모사쿠사(模索舎)라는 허름한 ‘서점’이 있다. 1970년대 만들어진 모사쿠사는 “표현과 언론 활동의 다양성을 보장”하는 것을 목표로 하고 있다. 특히 “표현과 언론 활동의 다양성이 보장되기 위해서는 이를 매개하는 미디어와 유통의 다양성을 지속해나가는 것이 무엇보다 필요하다. 모사쿠사는 이러한 다양성을 지키는 역할의 하나로서 중개점을 매개로 한 주요출판물 유통 루트에 대항하는 또 다른 유통 루트를 만드는 것을 목표로 자주 유통 출판물을 취급하고 있다." (http://www.mosakusha.com/voice_of_the_staff/)
동일본 대지진 이전에 모사쿠사는 한국에는 이제 없어진 ‘사회과학서점’과 비슷한 역할을 했다. 냉전 체제가 계속된 한국과 달리 일본은 상대적으로 사상의 자유가 폭넓게 보장되어 온 게 사실이다. 물론 소비자본주의의 힘이 강력한 일본에서 사상의 다양성 역시 자본의 힘에 짓눌려있다. 그런데도 오랜 역사를 지니고 어렵게 ‘살아남은’ 출판사, 서점, 네트워크는 사회 분위기가 이렇게 저렇게 변하는 와중에도 사회의 기저에 단단하게 뿌리를 내리고 있다. 모사쿠사도 그 중 하나이다. 동일본 대지진 이후 모사쿠사에는 자주 출판물들이 폭발적으로 증가했다. “데모하는 법”, “포스터 만드는 법” 등 데모의 기본 방법을 알려주는 작은 소책자부터 작은 모임들이 만든 출판물들이 전국에서 쇄도했다. 모사쿠사에는 1970년대 스타일의 고전적인 사회과학 서적과 막 출간된 쇼와시대 청년에 대한 박사 논문 저서와 동인지 오타쿠들의 소책자, 데모에 처음 나선 사람들이 스스로 만든 <데모하는 법> 같은 책들이 나란히 자리 잡고 있다.
<수상 관저 앞에서>에도 등장하는 “수도권 반원발(反原發)연합”의 미사오 레드월프도 일러스트레이터였다. 원래 아오모리 현의 핵연료 재처리 사업 반대 운동을 했던 그녀는 2007년 “모든 핵에 대해 ‘No라고 말하기 위하여’ 활동하는 비영리단체 “NO NUKES MORE HEARTS”를 만들게 되었다. 일러스트레이터였던 그녀는 이런 활동을 널리 알리기 위해 포스터나 안내장, 로고 등을 만들고 다른 단체의 이런 작업을 도와주기도 하면서, 원래 직업은 그만두고 활동가로서의 삶에 전념하게 되었다.(『直接行動の力, <首相官邸前抗議>』, 크레용 하우스, 2013)
일본의 데모에 많은 사람들이 관심을 갖게 된 것은 ‘수만 명이 모인 도쿄 도청 앞 데모’라는 강력한 이미지 때문이기도 하다. 언제나 그렇듯이 이런 강력한 이미지가 사라지면 사람들의 관심도 사라진다. 그렇다면 계속 이러한 강력한 이미지를 만들기 위해 노력해야 할까? 그것도 필요할 것이다. 그러나 일본에서 지난 몇 년간 데모의 역사를 보면 사실 중요한 것은 강력한 이미지보다, 지속하고 나누기 위한 보이지 않는 무수한 노력과 네트워크라 할 것이다. 1970년대 만들어진 모사쿠사는 거의 사람들의 주목도 받지 못한 채 신기할 정도로 생존을 지속해왔다. 모사쿠사가 있었기에 자주 출판을 지속할 수 있었고, 이제야 비로소 데모에 나가기 위해 새롭게 소책자를 만들고 나누고 싶은 사람들은 모사쿠사를 매개로 삼을 수 있었다. 물론 인터넷을 통한 빠르고 손쉬운 유통과 나눔도 중요한 역할을 했지만, 인터넷은 또한 그만큼 손쉽게 정보를 소멸시킨다.
거의 사람들의 눈에 띄지도 않지만, 대안과 사회 변화를 지향하면서 사회의 기저에 뿌리를 내리고, 어렵게 버텨온 오래된 네트워크와 미디어가, 새롭게 발생한 변화의 열정과 흐름을 실어 나르고 매개하는 창구가 된다. 어떤 점에서는 오늘날 일본 사회에서 데모는 활용할 수 있는 모든 미디어와 표현 방법을 새롭게 전유하고 발명하는 장이 되고 있다고 할 수 있다. 국적도 장르도 초월하여 소리를 내고 흥을 나누는 모든 도구를 데모의 표현 장르로 발명한 코엔지 그룹의 데모 역시 이런 사례라 할 것이다.
다양한 로고와 개성 넘치는 데모 방식으로 새삼 주목을 받고 있는 실즈는 사실 이러한 ‘데모’의 역사 속에서 형성된 것이다. 최근 실즈의 데모 방식과 생각들을 나누고 토론하는 책들이 대거 출판되고 있다. 서점에는 “실즈가 언급한 책” 코너가 마련되고 있기도 하다. 이렇게 미디어와 표현 방법을 새롭게 발명하면서, 데모는 지속되고 있다.
3. 돌아가기와 나아가기: 무한한 연결의 발명
어쩌면 이 이야기들은 일본 전문가나 누군가에게는 임시 방문자이자 이방인인 필자의 과장된 희망적 이야기로 보일 수도 있다. 아마 그럴지도 모르겠다. 내가 길지 않은 시간 만난 건 일본 사람이나 일본 사회라기보다, ‘탈출구가 없는 상황에서 그저 나름의 안간힘을 쓰고 있는 사람들’이었기 때문이다. 그리고 그건 앞서 말한 것처럼 나의 사연과 상황을 엮어서 써나간 이야기의 조각에 불과하다. 실패의 연속, 견고한 체제에 되먹히기를 멈출 수 없는 반복, 관계의 절망과 자신에 대한 회한과 자학, 나의 사연은 그렇게 제자리걸음을 하고 있다. 이제 길지 않은 일본 체류를 마감하고 돌아갈 날이 다가오고 있다. 과연 돌아가서 무엇을 할 수 있을까라는 절망적인 질문은 계속 유보해왔다. 대신 안간힘을 쓰고 있는 사람들 주변을 기웃거리며, 희망과 ‘대안’을 찾아 한 사람이라도 더 만나고자 애를 써보았다. 그래서 어떤 사람의 이야기도 내게는 너무나 크고 절실하게 보였다. 그렇게 안간힘을 쓰는 사람들의 이야기를 듣고 나누고, 또 전하면서 비로소 나의 사연도 다른 이야기로 나아갈 수 있지 않을까?
스스로가 역사를 만든다는 자의식을 내세우지 않지만, 결국 그렇게 다시 역사를 써나간 사람들. 그들의 이야기를 통해 비로소 역사란 단지 돌아가는 것이 아니라, 나아가는 것이라는 작은 결말을 되새겨본다.
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