<<實踐文學>>, Seoul, Korea, November, 2015

 

 

 

 

りなき相互作用デモ

 

 

 

 

クゥンミョンア(權明娥)

 

翻訳 : 田島哲夫

 

 

 

 

 

 

 

1.経緯

 

 

本稿日本についてのではない日本専門家でもない筆者日本についてのれるわけもなくここでろうとするのは日本状況についての評論分析ではない本稿つの経緯もうつの経緯りとなりまたいてたなりのをつくりだしそうしたりをわす集合体としての歴史がつくられる過程についてのつの報告であり断章であるこの歴史釜山研究集団アプコムと日本高円寺東日本大地震京都市役所前戦争法案するさまざまなのデモをめぐるみからまる紙幅られているためそのなかのきわめて一部のみを簡略紹介したいと

 

にも紹介されているシルズ(SEALDs)のデモの現場れば学生たちが自己紹介をしてから意見表明する姿ることができる自分でありこれまでデモについてどんなえをもっていたか政治についてや変化についてどうえてきたかあるいはなぜ関心がないのかところでまさにそうした自分自身がどんな理由からまさにここにっているのからはなぜこうしたりをするのかデモの歴史縁遠日本において現在のように数万人デモができた要因はいろいろとあるだろうとりわけ重要要因るにデモがらの経緯公的またそうしていの経緯わすびの発明したところにあるようにえる

 

日本国会前のデモにする報道ほとんどからカメラでとらえた数万人群衆写真せているデモについて報道してこなかった日本巨大メディアも数多くの人波焦点わせていた日本巨大メディアがデモ何人なのか学的分析しつつデモ主催者側した参加者数誇張されたものだと躍起になっている姿デモについての巨大メディアとデモとのとてつもない視角をあざやかにしている

 

東日本大震災以降首相官邸前国会前まったどこにもされなかったが日本全地域からまってきた発再稼働反対」「情報公開んだそして安保法案撤のためにあちこちからまり政府かってらの要求えた数万人群衆というような量的規模として合算できないらは皆自分なりの事情経験じてまたいにらの言葉くためにまりはじめ依然集まっている二万人なのか二十人なのかが重要でない理由はそのゆえである二十人まってもデモをけているところがここ日本でのデモがもつ重要意味である

 

それゆえ本稿でも経緯をまずることでめたいとった日本経緯じてそうやってまたさんの経緯へとあらたなりと歴史りだすことができるからである

 

ソウルのさまざまな人文空間釜山びつける

 

ファシズムを専攻する研究者として日本はファシズムの研究資料つの書庫であった対案人文学運動関心をもちまた釜山へとにとって日本意味わった釜山もゆかりもなかった移住者として釜山ろしまた地域研究者らに拠地となる対案空間をつくろうとさまざまなモデルをめたそうして対案研究集団アプコムをつくったアプコムはげようつのとしたそれは地域差別構造学力差別内面化された地方大研究者らと差別えていく自己肯定をともにつくりたいからであったソウルのさまざまな人文空間釜山びつけるみは成功失敗したソウルへのはチムのメンバれさせしんどくさせた試行錯誤この物理的距離感からもたらされるものだけではないことにどうにかづくことができた

 

歓待

 

ソウルと釜山往復する移動説的地域差別構造的心情的全身むことになったソウルのだちと仲間たちはアプコムをから歓待してくれたものの歓待だけではをのりえることはできなかったかえって歓待されているためにじるそっくりそのままメンバらの自分問題になってしまいをただ全身むしかなかった

 

クォンミョンアという個人ではなくアプコムの一構成員として行動すべきという強迫にちかいえをもっていたためメンバらとのソウルれはにそのまま転移したソウルれの理由はそれだけではなかった膨大資料基盤とする研究批評的実践とが自然体質していたため釜山でもめはこうした研究実践をつくったしかしソウルでとはなり資料すための時間的物理的消耗があまりにきかったソウルへ資料しにくことは地方とソウルとの格差じるに十分だったまたりの先輩仲間後輩たちがどんな資料論文使っておりそれは論文続編でありどの資料どこでセミナがあるといった協業分業とでなっている学問ソウルのみが独占しているのだということをじた

 

学問的介入説的介入のためのかねばという叱咤学問についての実感がないという地域研究者らのきを実際自実感することができなかったいまもその実感じに理解できるとはえていないまた資料基盤とした研究共同体をよりゲリラ批評的共同体へと転換したのはこうした理由きいまたアプコムのメンバとともにソウルをねることをやめた

 

高円寺311 そして革命のバタフライ効果

 

そして日本対案空間ねるしたソウルと釜山その地域対案空間いたやり踏襲したソウルの対案空間はよくれれているなのだが釜山地方対案空間はそうではない交換した情報ようやく連絡先しだしねてってインタビュしてらの活動共有するそうしていてめてったのが高円寺グルプだった高円寺グルプをはじめとする日本さな空間いているとき311発生した東日本大地震きた2011アプコムはより以上頻繁日本ねた国人日本からするのにしく日本する怪談(流言)であふれかえっていたたちはできるだけ日本くことをんだそこにはたちの苦境をともにかちあえるがいたからでありなによりらがんでいくをともにしたかったためである

 

 

 

 

 

 

 

こうした個人的をまずることは実際本稿において日本についての論議がいかなる脈絡背景にしているかをしくらかにしておきたかったからである日本安保法制批判現場についてはくの論議がなされているのだが、「革命のバタフライ効果とは論理的観的知識分析とはなる次元地平すとわれるからである安保法制批判のために数万人国会前まりデモをげている現在日本奇跡のような状況あるにおいてそれぞれの経緯経験ばれたからこそ可能だったとえる

 

 

 

 

2.わす集合体たな歴史くということ

 

 

歴史学者である小熊英二監督したドキュメンタリ首相官邸2015月中旬日本全公開された産業映公開とはなり各地域のさまざまな場所自主上映めた自主上映とは共同体上映形式である日本のようにマルチプレックス画館などはくないしかし会員制されているさな独立映画館健在しているとえる京都でも201510から立誠劇場上映まった立誠劇場少子高齢化により廃校となった立誠小学校改造した文化空間である1024首相官邸第一回上映があったこの日立誠劇場客席20から80まで男女問わずまった

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2015.10立誠劇場

ドキュメンタリ映画であるにもかかわらずながらためをつき安堵いをかちあった小熊英二えるには』『きてってきたなどででもよくられている歴史学者小熊英二はホムペジでドキュメンタリ制作について以下のようにらかにしている

 

この来事したいとった自分歴史家であり会学者いま自分がやるべきことはかといえばこれを後世すことだとった

 

 

ったことはなかった画作りに関心ったこともなかったしかし過去資料断片めてつの世界りあげることはこれまでの著作でやってきたうことになる対象文字であるか映像であるかはこのさい問題ではなかった

 

 

いうまでもないが一人った作品ではない同時代現場撮影していたびとインタビュじてくれたびとがすべて無償協力してくれた

 

 

なによりこの主役っているびとすべてだそのびとは性別世代地位国籍出身地志向もばらばらだそうしたびとがつのにつどう姿稀有のことであると同時しいとった

 

 

そうした奇跡のような瞬間つのめったにれるものではない歴史家だからそのことをっているがやったことやろうとしたことはそのような瞬間したというただそれだけにすぎない

 

いろいろな見方のできるだと率直感想しあってほしい意味えるのは観客でありその集合体としてのであるそこからあなたにとってまたにとってしいことがまれるはずだ

(小熊英二監督言葉」『首相官邸

http://www.uplink.co.jp/kanteimae/director.php

 

 

災難経験, 地方, デモ

 

安保法案反デモは東京都心である国会だけでなく日本全域においてしているのマスコミは東京国会前のデモに焦点わせているがさなかれるデモの存在もまた重要である日本においてデモが民主主義重要として登場したのはまさに東日本大地震福島原子力発電所事故経験びついているこの災難してさまざまな問題提起されたのだが災難経験ですら東京をはじめとする中央専有されてしまうという問題視された

 

2015数万人群衆まった国会前のデモについての便りをえる本稿において2011東日本大地震福島原子力発電所事故についてのりへとるのはこうした理由からである小熊英二首相官邸はデモを迷惑なものと黙的合意とつきうことにれていたびと(日本語という表現はこうした会的雰囲気典型的内包している)がどうやってデモへしていったかについての歴史的記録である。『首相官邸日本においてこの何年間デモをデモをしてえられるという囲気がどのようにづいたかについての研究作業でもある

 

"怪談"から知識主体となりまで

 

東日本大地震福島原子力発電所事故以降政府情報統制により情報交換しなければならなかった初期には被曝についての怪談(流言)まりもしたではにこうした怪談(流言)まっているしかし怪談(流言)だけではすることはできないするためにはそしてくためには観的具体的情報必要である東北地方びとは首相官邸東京電力蒐集した情報具体的要求事項政府対策追及したこうした過程ながらデモは情報知識とをかちあい続可能とする具体的対策追及するとなったこうした過程において知識以前とはなるへとかうしかなかった知識主体となり知識かちあうがデモの現場となったのである

 

パトスを噴出知識生産共有

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

日本のデモの現場はそうしたでパトスを噴出するというよりは知識生産共有となった過去全共闘時代激烈なデモが知識基盤としつつもパトスを噴出するであったとすれば今日日本のデモは知識かちあうとなったのであるこれはきわめて重要地点である日本のデモの現場見物したびとがしくなかったとかあまりに真面目とかのせるのもこうした脈絡からえてみることができる

こうした変化つめでのデモ文化やデモにする立場比較えてみもしたもちろん歴史的局面条件なる日本同一線上において比較するのはしいただ日本においてデモについての論議つめながらデモと民主主義関係をパトスと知識かちあい急進性続性単一立場主導性参加可能性という脈絡からもう一度論議していくくとはきわめて重要だとえるようになった

 

 

不安解消するための知識生産共有熱情

 

日本でも2011不安恐怖れとみという情動によりへと進出することになったしかしデモがパトスを噴出するにとどまるされたすることはできないもちろんこれは二項対立的なものではないくのがデモをしてそしてデモをできるということだけでも不安恐怖から変化させられるたな情動へと移行することができたと証言しているそうしたから東日本大地震以降日本におけるデモは不安恐怖情動いにかつことによりかえって変化させともにきぬかねばならないという変化熱情へと移行させる媒介となったとえるそしてこうした移行から不安解消するための知識生産共有熱情重要役割たしたとられる

 

2011模索

 

東日本大地震以降デモがまりしていく過程そうしたから知識生産かちあうなるやり専有する過程でもあったつの場面げてみよう2011東京強制節電施行中であり焦熱地獄のようにかった東京新宿には模索というびたじの書店がある1970年代につくられた模索表現言論活動様性保障ということを目標としているとくに表現言論活動様性保証するにはこれを媒介するメディア流通様性をもたせることが不可欠です模索はこの様性一役うため取次店した主要出版流通トにするもうひとつの流通をめざし自主流通出版物ミニコミ主要っています」。

http://(http://www.mosakusha.com/voice_of_the_staff/)

 

東日本大地震以前模索にははなくなった会科学書店たような役割たしてきた戦体制とはなり日本対的思想自由保障されてきたのはであるもちろん消費資本主義強力日本における思想様性もまた資本さえつけられてきたそれでも歴史をもちどうにかってきた出版社書店ネットワクは囲気があれこれ変化するなかでも基底にしっかりとろしている模索もそのつである

 

東日本大地震以降模索には自主出版物発的増加した。「デモのやり」「ポスタといったデモの基本方法らせてくれるさな冊子からさなまりがつくった出版物から殺到してきている模索には1970年代スタイルの古典的会科学書籍製本されてもない昭和時代青年についての博士論文にした著書同人誌オタクたちの小冊子デモにはじめて参加したらつくった上記デモのやりといったんでいる

首相官邸にも登場する首都圏反原発連合のミサオレッドウルフもイラストレだったもともと青森県核燃料再処理事業反対運動をしていた彼女2007てのしてというために」」活動する営利団体NO NUKES MORE HEARTSをつくることになったイラストレだった彼女はこうした活動らせるためにポスタ内状ロゴなどをつくり団体のそうした仕事をも手助けしながら仕事をやめ活動家としての専念することになった(直接行動首相官邸前抗議」 』クレヨンハウス, 2013)

 

強烈なイメ えない努力とネットワ

 

日本のデモにくの関心をもつことになったのは数万人まった国会前のデモという強烈なイメジのためでもあるいつもそうであるようにこうした強烈なイメジがると関心そうだとすればきこうしたイメジをつくるために努力すべきなのかそれも必要なことであるしかし日本においてこの数年間のデモの歴史れば実際重要なことは強烈なイメジよりかちあうためのえない努力とネットワクだとえるだろう1970年代につくられた模索はほとんど注目びないまま不思議なほどその生存してきた模索があったから自主出版することができめてデモにすためのたに小冊子をつくって配布したい模索をその媒介にすることができたもちろんネットをじた流通配布重要役割たしたがネットはまたそれだけ情報消滅させる

 

ってきたネットワクがたにじた変化熱情れを媒介する窓口となる

 

ほとんどのびとのにつきもしないが対案会変化しつつ基底ろしどうにかえてきたあるネットワクとメディアがたにじた変化熱情れを媒介する窓口となるあるでは今日日本においてデモは活用できるてのメディアと表現方法をあらたに専有発明するとなったとえる国籍もジャンルも超越ともにじるての道具をデモの表現ジャンルとして発明した高円寺グルプのデモもまたこうした事例だとえるだろう

なロゴと個性あふれるデモ方式によりあらためて注目めているシルズは実際こうしたデモ歴史のなかでづくられたものである最近ルズのデモの方法えをかちあい討論する書籍挙出版されている書店にはルズによる選書用意されてもいるこのようにメディアと表現方法をあらたに発明しながらデモはしている

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

3.りとりない連結発明

 

 

どうかすると以上日本専門家やどなたかには臨時訪問者異邦人である筆者誇張された希望的りとることもあろう多分そうかもれないくもない時間のなかったのは日本日本というよりは出口のない状況においてただ自分なりに全力くしているびとだったからである

 

そしてそれはったことのように状況とをんでいたりのかけらにぎない失敗強固体制による咀嚼のやむことのない反復関係絶望らへの悔恨自虐経緯はそのように足踏みをしているくもない日本滞留づいているたしてってができるのかという絶望的質問きカッコにれてきたそのわり全力くしているをのぞき希望対案めて一人でもくのおうとめてきたそれゆえあるにはあまりにきくったそうやって全力くしているびとのわしまたえながらはじめて経緯なるりへとすことができるのではないだろうか

 

らが歴史をつくるという自意識にはさないが結局そうやって歴史いていくらのりをしてめて歴史とはたんにめぐりゆくものではなくしていくものだというさな結末反芻してみる

 

 

 


 

 

 

 

 무한한 상호작용, 데모

 

 

 

 

 

권명아

번역 : 타지마 테츠오

 

 

 

 

 

 

 

1. 사연을 들려주다

 

 

이 글은 일본에 대한 이야기는 아니다. 일본 전문가도 아닌 필자가 일본에 대한 이야기를 쓸 수 있지도 않으려니와, 여기서 이야기하고자 하는 게 일본 상황에 대한 논평이나 분석은 아니다. 이것은 하나의 사연과 또 다른 사연이 만나서 이야기가 되고, 또 이어져서 새로운 이야기 연쇄를 만들고 그런 이야기를 주고받는 집합체로서 역사가 만들어지는 과정에 대한 하나의 보고이자 단상이다. 이 역사는 와 부산, 아프콤과 일본, 코엔지와 동일본 대지진, 교토 시청 앞과 전쟁법안을 반대하는 여러 형태의 데모를 오가는 발걸음에서 시작된다. 제한된 지면 관계로 그중 아주 일부만을 간략하게 소개하고자 한다.

 

한국에도 많이 소개된 실즈(SEALDs:Students Emergency Action for Liberal Democracy - s)의 시위 현장을 보면 대학생들이 자신에 대해 소개하면서 의견을 표명하는 모습을 볼 수 있다. 자신이 누구이고, 그간 데모에 대해서 어떤 생각을 가졌고, 정치에 대해서나 사회 변화에 대해서 무슨 생각을 해왔는지, 혹은 왜 관심이 없었는지, 그런데, 바로 그러한 자기 자신이 어떤 이유로 바로, 지금 여기에 서 있는지. 그들은 왜 이런 이야기를 하는 걸까? 데모의 역사가 희귀한 일본 사회에서 지금처럼 수만 명이 모인 데모를 지속할 수 있었던 요인은 여러 가지가 있을 것이다. 그중 중요한 요인은 내가 보기에 데모가 자신의 사연을 공적으로 말하고, 또 그렇게 서로의 사연을 주고받는 연결의 장을 다양하게 발명한 데 있다고 보인다.

 

일본 국회 앞 시위에 대한 한국 보도는 거의 하늘에서 카메라로 잡은 수 만 명의 군중 사진을 내걸고 있다. 데모 보도를 하지도 않던 일본 거대 미디어도 주로 수많은 인파에 초점을 맞추었다. 일본 거대 미디어가 시위대가 몇 명이었는가에 대해 과학적인 분석을 내놓으면서 시위대 측에서 내놓은 군중 수가 과장된 것이라며 열을 올리는 모습은 데모에 대한 거대 미디어와 시위대 사이의 엄청난 시각 차이를 선명하게 보여준다.

 

동일본 대진재 이후 수상 관저 앞과 국회 앞에 모인 사람들, 어디도 기록되지 못했지만, 일본 전 지역에서 모여 원전 재가동 반대’, ‘정보 공개를 외친 무수한 사람들, 그리고 안보법안 철폐를 위해 여기저기 모여 정부를 향해 자신의 요구를 전한 사람들은 수만 명의 군중과 같은 양적 규모로 합산될 수 없다. 이들은 모두 각자 자신 나름의 사정과 경험과 이력을 통해, 그리고 서로 그 말을 전하고 듣기 위해 모이기 시작했고, 계속 모이고 있다. 2만 명이냐 20명이냐가 중요하지 않은 이유는 그 때문이다. 20명이 모여서도 데모를 이어나가고 있는 것이, 지금 여기의 일본에서의 데모가 가진 중요한 의미이다.

 

그래서 이 글에서도 나의 사연을 먼저 여러분께 들려드리고 이야기를 시작하려 한다. 내가 보고 만난 일본은 나의 사연을 통해 이어지고 그렇게 또 여러분의 사연으로 이어져서 새로운 이야기와 역사를 만들어낼 수 있기 때문이다. 파시즘을 전공하는 연구자로서 오랜 시간 일본은 파시즘 연구 자료를 찾는 하나의 서고였다. 대안 인문학 운동에 관심을 갖고, 또 부산으로 이주하면서 나에게 일본의 의미는 변하였다. 부산에 아무런 연고도 갖지 못한 이주자로서 부산에서 뿌리를 내리고, 또 지역 연구자들에게 터전이 될 만한 대안 공간을 만들고자 여러 모델을 찾아 다녔다. 그렇게 대안연구모임 아프콤을 만들었다. 아프콤은 초기에 삶의 반경을 넓히자를 하나의 지향으로 삼았었다. 그것은 뿌리 깊은 지역 차별 구조와 학력 차별을 내면화한 지방대학연구자들과 차별의 벽을 넘는 자기 긍정의 힘을 함께 만들고 싶었기 때문이었다. 서울의 여러 인문 공간과 부산을 연결하려는 시도는 반은 성공하고 절반은 실패했다. 서울을 다녀오는 일은 팀원들을 지치고 힘들게 만들었다. 오랜 시행착오 끝에 이 피로가 물리적 거리감에서 비롯되는 것만은 아니라는 것을 겨우 눈치 챌 수 있었다.

 

서울과 부산을 왕복하는 이동은 역설적으로 지역 차별의 구조적이고 심정적인 을 온 몸으로 앓게 했다. 서울의 친구와 동료들은 아프콤을 진심으로 환대해주었지만, 환대만으로 을 넘을 수는 없었다. 오히려 환대를 받고 있기 때문에 벽을 느끼는 피로는 고스란히 팀원들의 자기 문제가 되어버렸고, 현실의 장벽을 그저 온 몸으로 앓는 수밖에 없었다. ‘권명아라는 개인이 아니라, 아프콤의 한 구성원으로 움직여야 한다는 강박에 가까운 생각을 가지고 있었기에 팀원들의 서울 몸살은 내게도 고스란히 전이되었다. 아니 서울 몸살의 이유는 그것만은 아니었다. 방대한 자료를 기반으로 한 연구와 비평적 실천을 자연스럽게체화하고 있었기에 부산에서도 처음에는 이런 식의 연구와 실천의 장을 만들었다. 그러나 서울에서와 달리 자료를 찾기 위한 시간적, 물리적 소모가 너무나 컸다. 서울로 자료를 찾으러 가는 일은 지방과 서울의 격차를 느끼기에 충분했다. 또 주변의 선배 동료 후배들이 어떤 자료로 무슨 논문을 쓰고 있고, 그게 누구 논문의 후속편이고, 어느 자료가 어디서 세미나가 있고 하는 식의 협업과 분업으로 이뤄진 학문장이란, 서울만이 독점한 것이라는 것을 절실하게 느꼈다.

 

학문적 개입, 담론적 개입을 위해 글을 써야 한다는 나의 질타에 학문장, 담론장에 대한 실감이 없다는 지역 연구자들의 한탄을 사실 실감하지 못했다. 아직도 그 실감을 내가 동일하게 이해할 수 있다고는 생각하지 않는다. 역사 자료를 기반으로 한 연구 공동체를 좀 더 게릴라적인 비평적 공동체로 전환한 것은 이런 이유가 크다. 그리고 아프콤과 함께 서울을 방문하는 일을 그만두었다.

 

그리고 일본의 대안공간을 찾아 길을 나섰다. 서울과 부산 여타 지역의 대안 공간을 찾아다니던 방법을 이어나갔다. 서울의 대안 공간은 잘 알려져 있는 편이지만, 부산이나 지방의 대안공간은 그렇지 않다. 입소문과 알음알음의 정보를 통해 겨우 연락처를 알아내고 찾아가서 만나고, 인터뷰를 통해 기록하고 그들의 활동을 공유한다. 그렇게 먼저 만난 것이 코엔지 그룹이었다. 코엔지 그룹을 비롯하여 일본의 작은 공간들을 만나가던 도중 3. 11이 발생했다. 동일본 대지진이 일어난 2011, 아프콤은 어느 때보다 더 자주 일본을 찾았다. 외국인들이 일본을 떠나기 바쁘고, 한국에서는 일본에 대한 괴담이 넘쳐나던 시간, 우리는 가능한 더 일본에 자주 가는 길을 택했다. 거기에 우리의 곤경을 함께 나눈 친구들이 있었기 때문이고, 무엇보다 이들이 걸어가는 길에 함께 하고 싶었기 때문이다.

 

 

 

 

 

 

 

 

이런 개인적 이야기를 먼저 하는 것은 사실 이 글에서 일본에 대한 논의가 어떤 맥락을 배경으로 하는지를 조금은 밝히고 싶어서였다. 일본의 안보 법제 비판의 현장에 대해서는 많은 논의들이 이어지고 있지만, ‘혁명의 나비 효과란 논리적이고 객관적인 지식 분석과는 다른 차원의 지평을 지시한다고 보이기 때문이다. 안보 법제 비판을 위해 수만 명이 국회 앞에 모여 시위를 벌이는 현재 일본의 기적과 같은상황은 어떤 점에서 각자의 사연과 경험이 이어졌기 때문에 가능했다고 생각한다.

 

 

 

 

 

2. 이야기를 나누는 집합체: 새로운 역사를 쓴다는 것

 

 

역사학자인 오구마 에이지가 감독한 다큐멘터리 <수상관저 앞에서>20159월 중순 일본 전역에 개봉되었다. 상업 영화의 개봉과는 다르게 각 지역의 여러 장소에서 다양한 형태로 자주상영을 시작했다. 자주 상영이란 한국의 공동체 상영과 같은 형식이다. 일본은 한국처럼 멀티플렉스 영화관 등이 많지 않다. 하지만 곳곳에 회원제로 운영되는 작은 독립 영화관이 아직은 건재한 편이다. 교토에서도 201510월부터 리쎄(立誠) 극장에서 상영이 시작되었다. 리쎄 극장은 고령화로 인해 폐교된 리쎄 초등학교를 개조한 문화 공간이다. 1024일은 <수상관저 앞에서>의 첫 상영회가 있었다. 이날 리쎄 극장의 객석은 20대에서 80대까지, 남녀를 막론한 다양한 사람들로 가득 찼다.

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

다큐멘터리 영화임에도 불구하고 사람들은 영화를 보며 한숨짓고 울고, 안도감을 나누었다. 오구마 에이지는 사회를 바꾸려면이나 일본 양심의 탄생등으로도 한국에 잘 알려진 역사학자이다. 오구마 에이지는 홈페이지에서 다큐멘터리 제작에 대해 다음과 같이 밝혔다.

 

 

 

역사학자이자 사회학자로서 나는 이 역사적 사건을 기록하고 싶었다. 나의 임무는 이 사건을 포착해서 미래 세대에게 건네주는 것이다. 나는 영화를 감독한 경험이 전혀 없었고, 영화 작업에 대해 지금까지는 전혀 관심도 없었다. 책을 쓰면서 나는 항상 과거의 역사 자료의 조각들이 자신의 이야기를 들려줄 수 있도록 재조합하곤 했다. 이 다큐멘터리 프로젝트를 하면서 이 독특한 사건을 들려줄 수 있는 자료가 문자인가 영상인가는 것은 별로 문제가 되지 않았다.

물론 나는 이 필름을 혼자 힘으로 완성할 수 있었던 것은 아니다. 동시대의 현장을 기록한 수많은 독립 제작자들은 그들의 필름을 내가 무상으로 사용할 수 있도록 선뜻 응해주었고, 전 수상조차 이 작업에 기꺼이 응해주었다.

내가 보기에 이 다큐멘터리에 나오는 사람들이야말로 진정한 스타이다. 그들은 젠더, 세대, 계급, 출신, 지위, 국적 지향 등이 다 다르다. 이들이 항의를 하기 위해 수상 관저 앞에 함께 모였다는 것은 그야말로 흔치 않은, 강력하고도 아름다운 순간이었다.

한 국가나 사회에서 이러한 순간이 발생하는 것은 그야말로 기적과 같은 순간이다. 나는 역사학자이고 그것을 잘 알고 있다. 내가 할 수 있고, 또 하고 싶은 일은 다만 이 이례적인 순간을 포착해서 기록하는 그것뿐이다.

 이 영화는 보는 사람에 따라 여러 방식으로 해석할 수 있는 작품이라고 생각한다. 이 영화를 보고 옆에 있는 사람과 영화에 대한 솔직한 생각들을 나눠주시기 바란다. 영화에 의미를 부여하는 것은 관객이고, 그 관객의 집합체가 사회이다. 이러한 상호작용에서부터 당신에게도 또 사회에 있어서도 새로운 것이 발생하리라 믿는다. (오구마 에이지, <감독의 말> <수상관저 앞에서> 홈페이지, http://www.uplink.co.jp/kanteimae/director.php, 번역 필자)

 

 

 

안보법안 반대데모는 도쿄 중심가인 국회 앞에서만이 아니라 일본 전역에서 다양하게 지속하고 있다. 한국 언론은 주로 도쿄의 국회 앞 시위에 초점을 두고 있지만 전국 곳곳, 작은 동네마다 열리는 데모의 존재 역시 중요하다. 일본 사회에서 데모가 민주주의의 중요한 형식으로 다시 등장한 것은 바로 동일본 대지진과 후쿠시마 원자력발전 사고의 경험과 깊이 연결되어 있다. 이 재난을 통해서 여러 가지 문제들이 제기되었지만, 재난의 경험조차 도쿄를 비롯한 중앙의 목소리에 전유 되어버린다는 점이 강력하게 문제시되었다.

 

2015년 수만 명의 군중이 모인 도쿄 도청 앞 데모에 대한 소식을 전하는 이 글에 2011년의 동일본 대지진과 후쿠시마 원자력 발전 사고에 대한 이야기로 거슬러 올라가는 것은 이런 이유 때문이다. 오구마 에이지의 <수상 관저 앞에서>는 데모를 민폐로 여기고, 사람들의 암묵적인 합의를 묵묵히 따라가는 데 익숙했던 일본 사람들(일본어로 공기를 읽는다.’는 표현은 이런 사회적 분위기를 전형적으로 담고 있다.)이 어떻게 데모로 나아가게 되었는가에 대한 역사적 기록이다. <수상 관저 앞에서>는 일본 사회에서 지난 몇 년간 데모를 지속하고, 데모를 통해 사회를 변화할 수 있다는 분위기가 어떻게 자리 잡게 되었는지에 대한 연구 작업이기도 하다.

 

동일본 대지진과 후쿠시마 원자력 발전 사고 이후 정부의 정보 통제로 인해 사람들은 스스로 정보를 모으고 나누어야만 했다. 초기에는 피폭에 대한 괴담이 퍼지기도 했고, 한국에는 주로 이런 괴담들이 널리 퍼지고 있다. 그러나 괴담만으로는 삶을 지속할 수가 없다. 삶을 지속하기 위해서는, 그리고 살아남기 위해서는 객관적이고 구체적인 정보가 필요했다. 동북 지방 주민들은 수상 관저 앞에서, 동경 전력 앞에서 자신들이 수집한 정보를 기반으로 구체적인 요구 사항과 정부의 대책을 촉구했다. 이런 과정을 거치면서 데모는 정보와 지식을 나누고 삶을 지속할 수 있는 구체적인 대책을 촉구하는 장이 되었다. 이런 과정에서 지식은 이전과는 다른 형태로 나아갈 수밖에 없었다. 아니 모두가 지식 생산의 주체가 되고 모두의 지식을 나누는 장이 데모 현장이 되었다.

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

일본의 데모 현장은 그런 점에서 파토스를 분출하는 장이라기보다 지식 생산과 공유의 장이 되었다. 과거 전공투 시대의 격렬한 데모가 지식을 기반으로 하면서도 파토스를 분출하는 장이었다면, 오늘날의 일본의 데모는 모두의 지식을 나누는 장이 된 것이다. 이는 매우 중요한 지점이다. 일본의 데모 현장을 구경한 한국 사람들이 강력하지 않다거나 너무 진지하다거나 하는 반응을 보이는 것도 이런 맥락에서 생각해볼 수 있다.

 

이런 변화를 보면서 한국에서의 데모 문화나 데모에 대한 입장들을 비교해서 생각해보기도 했다. 물론 역사적 국면이나 조건이 다른 한국과 일본을 동일 선상에서 비교하기는 어렵다. 다만 일본 사회에서 데모에 대한 논의를 보면서 데모와 민주주의의 관계를 파토스와 지식의 나눔, 급진성과 지속성, 단일 입장의 주도성과 모두의 참여 가능성이라는 맥락에서 다시금 논의해나가는 것이 매우 중요하다는 생각을 하게 되었다. 일본에서도 2011년 사람들은 불안, 공포, 두려움과 원한이라는 정동으로 거리로 나서게 되었다. 그러나 데모가 파토스를 분출하는 장에 그치는 한, 파괴된 삶을 지속해나갈 수가 없다. 물론 이는 이항 대립적인 것은 아니다. 많은 이들이 데모를 통해서, 그리고 데모를 지속할 수 있다는 것만으로도 불안과 공포에서 벗어나, 삶을 변화시킬 수 있는 새로운 정동으로 이행할 수 있었다고 증언하고 있다. 그런 점에서 동일본 대지진 이후 일본에서 데모는 불안과 공포의 정동을 서로 나눔으로써 오히려 삶을 변화시키고 함께 살아남아야 한다는 변화의 열정으로 이행시킨 매개가 되었다고 할 수 있다. 그리고 이런 이행에서 불안을 해소하기 위한 지식 생산과 공유의 열정이 중요한 역할을 했다고 보인다.

 

동일본 대지진 이후 데모가 시작되고 사람들이 모이고 나아가는 과정은 그런 점에서 지식을 생산하고 나누는 방법을 전혀 다른 방식으로 전유하는 과정이기도 했다. 하나의 장면을 예로 들어보자. 20118월 도쿄는 강제 절전 시행 중이라 불지옥처럼 뜨거웠다. 도쿄의 신주쿠에는 모사쿠사(模索舎)라는 허름한 서점이 있다. 1970년대 만들어진 모사쿠사는 표현과 언론 활동의 다양성을 보장하는 것을 목표로 하고 있다. 특히 표현과 언론 활동의 다양성이 보장되기 위해서는 이를 매개하는 미디어와 유통의 다양성을 지속해나가는 것이 무엇보다 필요하다. 모사쿠사는 이러한 다양성을 지키는 역할의 하나로서 중개점을 매개로 한 주요출판물 유통 루트에 대항하는 또 다른 유통 루트를 만드는 것을 목표로 자주 유통 출판물을 취급하고 있다." (http://www.mosakusha.com/voice_of_the_staff/)

 

동일본 대지진 이전에 모사쿠사는 한국에는 이제 없어진 사회과학서점과 비슷한 역할을 했다. 냉전 체제가 계속된 한국과 달리 일본은 상대적으로 사상의 자유가 폭넓게 보장되어 온 게 사실이다. 물론 소비자본주의의 힘이 강력한 일본에서 사상의 다양성 역시 자본의 힘에 짓눌려있다. 그런데도 오랜 역사를 지니고 어렵게 살아남은출판사, 서점, 네트워크는 사회 분위기가 이렇게 저렇게 변하는 와중에도 사회의 기저에 단단하게 뿌리를 내리고 있다. 모사쿠사도 그 중 하나이다. 동일본 대지진 이후 모사쿠사에는 자주 출판물들이 폭발적으로 증가했다. “데모하는 법”, “포스터 만드는 법등 데모의 기본 방법을 알려주는 작은 소책자부터 작은 모임들이 만든 출판물들이 전국에서 쇄도했다. 모사쿠사에는 1970년대 스타일의 고전적인 사회과학 서적과 막 출간된 쇼와시대 청년에 대한 박사 논문 저서와 동인지 오타쿠들의 소책자, 데모에 처음 나선 사람들이 스스로 만든 <데모하는 법> 같은 책들이 나란히 자리 잡고 있다.

 

<수상 관저 앞에서>에도 등장하는 수도권 반원발(反原發)연합의 미사오 레드월프도 일러스트레이터였다. 원래 아오모리 현의 핵연료 재처리 사업 반대 운동을 했던 그녀는 2007모든 핵에 대해 ‘No라고 말하기 위하여활동하는 비영리단체 “NO NUKES MORE HEARTS”를 만들게 되었다. 일러스트레이터였던 그녀는 이런 활동을 널리 알리기 위해 포스터나 안내장, 로고 등을 만들고 다른 단체의 이런 작업을 도와주기도 하면서, 원래 직업은 그만두고 활동가로서의 삶에 전념하게 되었다.(直接行動, <首相官邸前抗議>, 크레용 하우스, 2013)

 

일본의 데모에 많은 사람들이 관심을 갖게 된 것은 수만 명이 모인 도쿄 도청 앞 데모라는 강력한 이미지 때문이기도 하다. 언제나 그렇듯이 이런 강력한 이미지가 사라지면 사람들의 관심도 사라진다. 그렇다면 계속 이러한 강력한 이미지를 만들기 위해 노력해야 할까? 그것도 필요할 것이다. 그러나 일본에서 지난 몇 년간 데모의 역사를 보면 사실 중요한 것은 강력한 이미지보다, 지속하고 나누기 위한 보이지 않는 무수한 노력과 네트워크라 할 것이다. 1970년대 만들어진 모사쿠사는 거의 사람들의 주목도 받지 못한 채 신기할 정도로 생존을 지속해왔다. 모사쿠사가 있었기에 자주 출판을 지속할 수 있었고, 이제야 비로소 데모에 나가기 위해 새롭게 소책자를 만들고 나누고 싶은 사람들은 모사쿠사를 매개로 삼을 수 있었다. 물론 인터넷을 통한 빠르고 손쉬운 유통과 나눔도 중요한 역할을 했지만, 인터넷은 또한 그만큼 손쉽게 정보를 소멸시킨다.

 

거의 사람들의 눈에 띄지도 않지만, 대안과 사회 변화를 지향하면서 사회의 기저에 뿌리를 내리고, 어렵게 버텨온 오래된 네트워크와 미디어가, 새롭게 발생한 변화의 열정과 흐름을 실어 나르고 매개하는 창구가 된다. 어떤 점에서는 오늘날 일본 사회에서 데모는 활용할 수 있는 모든 미디어와 표현 방법을 새롭게 전유하고 발명하는 장이 되고 있다고 할 수 있다. 국적도 장르도 초월하여 소리를 내고 흥을 나누는 모든 도구를 데모의 표현 장르로 발명한 코엔지 그룹의 데모 역시 이런 사례라 할 것이다.

 

다양한 로고와 개성 넘치는 데모 방식으로 새삼 주목을 받고 있는 실즈는 사실 이러한 데모의 역사 속에서 형성된 것이다. 최근 실즈의 데모 방식과 생각들을 나누고 토론하는 책들이 대거 출판되고 있다. 서점에는 실즈가 언급한 책코너가 마련되고 있기도 하다. 이렇게 미디어와 표현 방법을 새롭게 발명하면서, 데모는 지속되고 있다.

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

3. 돌아가기와 나아가기: 무한한 연결의 발명

 

 

어쩌면 이 이야기들은 일본 전문가나 누군가에게는 임시 방문자이자 이방인인 필자의 과장된 희망적 이야기로 보일 수도 있다. 아마 그럴지도 모르겠다. 내가 길지 않은 시간 만난 건 일본 사람이나 일본 사회라기보다, ‘탈출구가 없는 상황에서 그저 나름의 안간힘을 쓰고 있는 사람들이었기 때문이다. 그리고 그건 앞서 말한 것처럼 나의 사연과 상황을 엮어서 써나간 이야기의 조각에 불과하다. 실패의 연속, 견고한 체제에 되먹히기를 멈출 수 없는 반복, 관계의 절망과 자신에 대한 회한과 자학, 나의 사연은 그렇게 제자리걸음을 하고 있다. 이제 길지 않은 일본 체류를 마감하고 돌아갈 날이 다가오고 있다. 과연 돌아가서 무엇을 할 수 있을까라는 절망적인 질문은 계속 유보해왔다. 대신 안간힘을 쓰고 있는 사람들 주변을 기웃거리며, 희망과 대안을 찾아 한 사람이라도 더 만나고자 애를 써보았다. 그래서 어떤 사람의 이야기도 내게는 너무나 크고 절실하게 보였다. 그렇게 안간힘을 쓰는 사람들의 이야기를 듣고 나누고, 또 전하면서 비로소 나의 사연도 다른 이야기로 나아갈 수 있지 않을까?

 

스스로가 역사를 만든다는 자의식을 내세우지 않지만, 결국 그렇게 다시 역사를 써나간 사람들. 그들의 이야기를 통해 비로소 역사란 단지 돌아가는 것이 아니라, 나아가는 것이라는 작은 결말을 되새겨본다.

 

 

 

 

 

 

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